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山本さんと安藤さん。


今日、小田急百貨店にあるマザーハウスの店舗に立っていた。

理由は、2008年から続けてきたこのお店が小田急百貨店の閉店により幕を閉じ、10月にできる小田急ハルクと京王百貨店の2店舗にバトンを継ぐことになっているから、思い出の場所で最後の接客をしたかったからだ。

(写真はマザーハウス小田急新宿店)

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(写真は最新のマザーハウス京王百貨店。ハルクはメンズ館となり10月にオープン予定。)

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2008年私たちは入谷と戸越銀座というニッチすぎる場所にしかお店がなかった。(*現在両店共に存在しません。下の写真は入谷店。(今は弊社倉庫になっています))

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8坪で家賃8万4000円。そこに月給5万の社長と副社長、10万くらいのスタッフ3人くらいが肉体労働をしていた笑。

昭和の起業ではない。これは2008年、平成の話なんだ。

その入谷のお店も、床を自分たちでひいて、板には隙間だらけで歩くと奇妙な音がしていた。
ご飯は炊いて、わずかなおかずは、お客様が差し入れをしてくれるものを分け合う、というこれは福祉施設ではない、入谷の「店舗」の裏で起こった話だ。

そんな場所に「小田急百貨店バイヤー」という名刺を持って現れたのは「山本さん」だった。

きっかけは「ECOプロダクツ」だった。ビッグサイトでやっていた展示会だ。
当時、ジュート(麻)を使った商品群が100%で、環境に対しての展示会に出て、なんとかベンチャーである我々は活路を見出そうとしていたのだ。

ただECOプロダクツでは山本さんは悲惨なことに、私がトイレに言っている時にブースに名刺を置いていってくれていて、会うことはなかった。(当時の私がそこに立ってくれていた契約社員のスタッフにブチ切れていた。「なんで呼ばねえんだよクソったれ!!!!」って。いやほんと、すみません。。。)

もちろんこちらから名刺の連絡先に電話をかけ、入谷にわざわざ来てくれた。

ただ、商談スペースなんてないから、確か八百屋をやっていた私の祖母がみかんを送ってくれていて、その箱を反対側にして机にして隙間だらけの板に、変なタオルみたいな座布団だけひいて上がってもらった笑。(何度も言うが、平成の話だ)


「うちでお店を持ちませんか。」
山本さんのその言葉から奇跡は始まった。

「ジュートは新しいし、ものすごいストーリーがある」
山本さんはギラギラした私と山崎を信じてくれた。

「でも店舗を出す資金は今はないんです。十分な借入も起こせるかわからない。」

今だから言えるが、なんと山本さんは小田急百貨店から「店舗内装費折半」と言うありえない条件を用意してくれた。

普通は当然、テナントが出す費用。それをいきなり何も実績のない私たちに、館さんが内装費を半分出すと言うんだ。今だからわかるが、こんなことは16年間40店舗以上経験しても、一度もない。


しかし話はここで終わらない。そんな光栄な機会なのに私たちは「マザーハウスは“家”がコンセプトだから、ここに塀をたてる。」「奥には庭が広がっているように、木を植えるんだ」「それに、赤い屋根を壁にくっつけるんだ。」
奇想天外な内装図面を持ってきた私たち。

「・・・・一応館にはルールっていうのがあるんだが・・・。」

山本さんと相棒の安藤さんはそれでも一緒になって木や塀を選び、内装までも手伝ってくれ、共に汗を流してくれた。

私は本当に、最初の「百貨店の人」が山本さんと安藤さんだったから、勘違いしていた。

(こんなに百貨店の人たちって良い人なんだ!)って。。。。笑。)

当たり前にそんなことはなかった。

異常な2人のWarm heartを、時を経るごとに理解していった愚かな私だ。

小田急店はオープンし、マザーハウスはぶっちぎりのビリッケツの売上だった。
「ディスプレイってなに?毎週かえるの??」
オペレーションはぐちゃぐちゃ。クレームは山積み。共有漏れも山ほどあるが、お恥ずかしい売上の数字だけは確かに共有される。

「いつ閉店するんだろうね」と隣のお店に言われたこともあった。

しかし、私たちの下剋上精神は途上国から学んだ生粋のものだ。

売れないなら売れるまで商品を作る。私は、自ら作ったものを売れないものは即廃番にした。売れるものを作るために工場を変え、店舗も変え、さまざまな仕組みを猛スピードで変えていき、盗める知識は周りのブランドから山ほど盗んだ。
(絶対このままじゃ終わらない。)

そんな気持ちで、私はデザイナーとしてもまだ見ぬ「ヒット」商品を作るために、数千に及ぶ型紙、新作を作っては壊しを連発していた。手が腱鞘炎になったことも山ほどある笑。

ザ・体育会系ど根性物語のようだが、否定しない。

何もかっこいい物語なんて、隠れていない。

でも苦労を共にしてくれたスタッフと共に流した涙や努力や激論は人生の宝物だ。

それらは少しずつ形になって現れていき、私たちは数年前からフロアでトップの売上になり、今回の閉店においても、非常に非常に、館の方が大事にしてくれ小田急ハルクさんへの移動が決まった。


そんな経緯がある新宿店に今日立っていて、もうずっと昔に退職されていた山本さんと安藤さんが、赤い花束を持って私の目の前に現れたのだ。

「コロナだけどすみません!!!」と第一声を勝手に放ち、私は山本さんに抱き着き、その後、隣にいた安藤さんに抱きつき、マスクがベチャベチャになるほどの号泣をした。

「頑張っているねえ。」って昔みたいに温かい表情で言ってもらえて、もっともっと涙が出た。

「2人がいなかったから今の私はいません。マザーハウスもない。」

号泣しながら伝える私。本気で、そう思っている。

2人からもらった奇跡を、奇跡のままにしちゃいけない。
そう思いながら、新宿店を軸に、3店舗から10店舗、20店舗、、、、40店舗と増やしていった。

いくつかの店舗のバイヤーさんは、明確に「新宿店を見させてもらってオファーをしています」と言ってくれ出店が決まり、そうした店舗に配置される店長もまた、新宿店で経験を積んだスタッフが多くいた。

始まりはいつも、一つ、一人から。

あの時、エコプロダクツでブチギレした私は今、トイレで逃したチャンスを取り戻し、きちんと活かせているって、心から思える。

人生って豊かだと今日山本さんと安藤さんの顔を見て、思った。

二人と一緒に、同じ想いで14年間を振り返れることが、本当に「幸せ」だった。

よくテレビや映画で老夫婦が「あの時はああやって、楽しかったねえ」という回想シーンがあるが、私はそんな風に、“あの時あの瞬間”を共に振り返れる人たちが家族以外にもこうやっていてくれることが、私にとっては本当の幸せなんじゃないかなって思った。

そして、私の中では二人への恩はまだまだこれからも新しい扉を叩き、前に進むことによって、返していきたいと思っている。

泣きっ面で記念に撮った4人の写真は人生の宝物になった。(手前左山本さん、右は安藤さん、私の隣は副社長の山崎)

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