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マザーハウスカレッジ ~ゲストトークから~

マザーハウス副社長の山崎大祐が「Warm Heart, Cool Head(熱い情熱と冷静な思考)」を合言葉に開催しているマザーハウスカレッジ。開催は50回を超え、延べ2000人を超えるお客様にご参加いただいています。
本連載では、山崎大祐がカレッジで行われたゲストトークを中心にまとめ、明日の挑戦へのヒントになるような視点をご提供します。

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第4回 マザーハウスカレッジ ~ゲストトークから~

好きなモノを失い、人生の意味を失いかけた。ブラインドサッカーが全てを変えた。(落合啓士氏<前編>)

2016.09.14

WRITTEN BY

山崎大祐 マザーハウス副社長

前編:ブラインドサッカー前日本代表キャプテン 落合啓士氏(第46回ゲスト)

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(落合啓士 氏)
1977年8月2日生まれ。神奈川県出身。
10歳の頃から徐々に視力が落ちる難病を発症し、18歳で視覚障がい者となる。
25歳でブラインドサッカーに出会い、その後日本代表に選出。
世界選手権2014、アジア選手権2015では日本代表キャプテンとして出場。
神奈川県内唯一のブラインドサッカーチーム「buen cambio yokohama」設立。代表を務める。
昨年、自身の半生を綴った「日本の10番背負いました ブラインドサッカー日本代表・落合啓士」(講談社)を出版。
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落合1
(マザーハウスサンクスイベント内で行われたカレッジ特別編。写真左が落合さん。)

街で見かけることはあっても、なかなか接することがない視覚障がいを持つ方々。それゆえ、理解が進んでいるとは言えず、偏見や抵抗感を生んでしまうことも少なくありません。かくいう私も、落合さんに出会うまでは自分の周りにそのような人はおらず、理解があったとは言えませんでした。

先日行われたサンクスイベントのテーマは「Meet The New World」。私たちの周りには、新しい出会いやきっかけが沢山溢れています。私にとって、新しい価値観を提供してくれたブラインドサッカー選手・落合さんとの出会い。無知を承知で正直な質問をぶつけ、視覚障がいやスポーツの可能性について議論することにしました。そして今回の対談は、想像通り、自分の固定観念を大きく壊してくれる良い機会になりました。

生きる意味を失っていた

「ブラインドサッカーに出会うまでは絶望の日々でした。生きる意味すら失いつつありました。」

多感な時期である10歳から18歳の間に、徐々に視覚を失っていく辛さと闘ってきた落合さん。10歳の時に今後、完全に視覚を失うと医師に診断された後も、周りの親しい友人にさえも視覚を失っていくという事実を打ち明けられなかったと言います。自分は障がい者であると公表し、そう見られることが怖かったのです。

当初はだましだまし過ごしてきた落合さんも、時間が経つにつれ周りを「騙し続ける」ことが難しくなっていきます。目の前の友人に視点が合わず、友人に「どこを見ているの?」と指摘されたり、夜に自転車に乗っていて事故にあいかけたり。更には大好きな漫画や、モテたい一心で始めたサッカーもボールが見えずにやめざるをえなくなりました。

普通の10代とは、何かを得る時代。しかし落合さんは、好きなものを一つ一つ失っていきました。そんな環境にいれば、未来に絶望するのは当然です。落合さんはエネルギーの行き場がなくなって自暴自棄になり、家族にも当たる毎日が続きました。

黎明期のブラインドサッカーに出会う

いよいよ見えなくなって通常の生活が難しくなってきた中で、18歳から盲学校に通い始めた落合さん。今まで困難な中でも通常の生活をしてきましたが、いよいよ自分の障がいを受け入れないといけなくなったこの時期が一番辛かったと言います。

「盲学校に入って、多様性がなくなったことが辛かったです。そして、その環境にいる自分=障がい者である、と受け入れることも出来なかった。だから、よく脱走もしました。この時期は生きている意味も感じず、死にたい、とすら思っていました。」

10代に視覚を失い始めてから、失うこと続きだった人生。そんな人生に絶望し、生きる意味すら失い始めていた落合さん。そんな人生が変わったのがブラインドサッカーでした。

ブラインドサッカーは2002年に日本に入ってきた障がい者スポーツで、落合さんが始めた2003年はまだ黎明期。ほとんどプレイヤーもいませんでした。たまたま視覚障がい者の集まりでその存在を知った落合さんは、元々サッカーを愛しプレーしていたこともあって、すぐに興味を持ち始めました。

「当時、私はゴールボールという障がい者スポーツをやっていたのですが、ブラインドサッカーを聞いた時に心が躍り転向しました。サッカースタジアムにこだまする声援が頭の中に広がったのです。ずっと失い続けてきた自分の人生に、希望を感じました。そして初めて自分の障がい者としての人生を受け入れられた気がしたのです。」

ブラインドサッカーに人生を捧げる

ブラインドサッカーに出会った落合さんは、人生をブラインドサッカーに捧げる覚悟を決めます。しかし、今でこそ障がい者スポーツトップクラスの人気を誇るブラインドサッカーですが、当時はまだ始まったばかり。認知度も道具もプレー環境も全く整っていない中で、苦労も多かったと言います。

「日本では関西から広がったこともあり、関西のトップチームでプレーするため関西に引っ越し、仕事も変えました。そこで数年間頑張っている間に認知拡大が進んで、ようやく自分の故郷である横浜でブラインドサッカーのクラブチームを立ち上げることが出来ました。自分の人生をブラインドサッカーに捧げてきたと言ってもいいと思います。」

ブラインドサッカーに出会い、障がい者としての自分の活躍の舞台を見つけた落合さん。今まで失うばかりだった人生が、新しい出会いと可能性にあふれたものへと変わりました。一方で、そのプレイヤー人生は順風満帆だったわけではありません。選手になってからすぐに日本代表には選ばれたものの、チーム内でトラブルを起こしての日本代表が落選したり、度重なるパラリンピック予選敗退など、多くの困難を経験しています。

そのたびに引退が頭によぎりましたが、それを乗り越えて日本代表を続けてきました。そして、リオ・パラリンピックに向けた日本代表のキャプテンに指名されることになったのです。

(後編:「障がい」は個性。東京パラリンピックでは私たちが問われる。)

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